父長谷川孝道は「いだてん」放映を見届け、幸せな生涯を閉じました

父長谷川孝道は「いだてん」放映を見届け、幸せな生涯を閉じました

2019年4月17日、父、長谷川孝道が87歳で幸せな生涯を閉じました。生前、お世話になった皆様に心から感謝申し上げます。

父の遺志で、家族葬をすませ(18日に通夜、19日に葬儀)、20日付の熊本日日新聞での公表となりましたので、多くの皆様にお知らせできなかったことをご了承ください。以下、熊日の社会面、スポーツ面に出た記事です。(掲載許可)

 

 

長谷川孝道プロフィール 『走れ二十五万キロ 金栗四三伝』より

1931年(昭和6年)、熊本市生まれ。済々黌高校、早稲田大学法学部卒。熊本日日新聞社社会部、東京支社長、広告局長、情報開発局長等を経てエフエム中九州社長、会長。その間、熊本陸上競技協会会長、心豊かな熊本を創る会会長、熊本県体育功労者、日本陸上競技連盟秩父宮賞受賞。著書に『走れ二十五万キロ 金栗四三伝』『熊本の体力・郷土スポーツの歩み』(編著)など。

 

ちょうど、父の著書『走れ二十五万キロ マラソンの父 金栗四三伝』がNHK大河ドラマ「いだてん」の金栗四三の部分の下敷きとなる資料だったことから、新聞では金栗四三さんのことを中心に死亡記事が出ていますが、下記のプロフィールにありますように、新聞記者としてはスポーツだけを担当したわけではなく、熊日の移動先のどの部署でも、父は多くの挑戦をして道を切り開く人でした。その後、FM中九州(現、エフエム熊本)を設立、熊本初の民放FM局が誕生したときには、とても嬉しそうでしたし、熊本陸上競技協会会長在任中(金栗さんが会長だったことを考えると不思議な気がします!)も、多くの挑戦をしていたようです。いつも、新しいことを企画するのが好きだった父は、カナクリズムを体現して、頑張ってきました。

昨年夏の米寿の祝いでは、かつて新聞記者として取材した東京オリンピックを思い出しながら、2020年の東京オリンピックを見たいと張り切っておりました。その夢は叶いませんでしたが、晩年になっても多くの取材を受け、「いだてん」を毎日曜日に見ること、母を見舞うこと、私が毎月帰省すること、家族皆で食事に行くことを楽しみにしていました。最後の最後まで周りへの感謝を伝え、妹夫婦に看取られ旅立ちました。何度も父を案じてお見舞いくださった皆さま、本当にありがとうございました。

 

 

以下、『走れ二十五万キロ 金栗四三伝』の書籍案内と詳しい目次、出版との経緯と「いだてん」とのご縁、いだてん日記1、2、3、そして1月にオープンした金栗四三ミュージアム会館記念イベントの様子等、樹原涼子web内の関連記事を集めました。いだてん日記は、落ち着いてから再開いたします。

 

『走れ二十五万キロ マラソンの父 金栗四三伝』 長谷川孝道著 目次他、詳細

 

『走れ二十五万キロ 金栗四三伝』発刊 父 長谷川孝道 著

樹原涼子の いだてん日記 1

樹原涼子の いだてん日記 2

樹原涼子の いだてん日記 3

 

金栗四三ミュージアム開館記念 樹原涼子トーク&コンサートコーナー無事終了!

NHKのいだてん公式ツイッターで、父の死を惜しんでくださって、心から感謝申し上げます。
昨年5月の玉名市での撮影の折の写真です。

 

感謝をこめて、私からも下記のようにツイートさせていただきました。@LiokoKihara

父は金栗さんの全てを本に残すことが最後の仕事と復刻版に命を懸けていたので、今頃金栗さんと「大河ドラマになりましたばい」と天国で乾杯していると思います。

 

 

『走れ二十五万キロ 金栗四三伝』に目を留めてくださったNHKのスタッフの皆様、中村勘九郎さん、そしてもちろん宮藤官九郎さん、そして音楽の大友良英さん他多くの皆さま、本当にありがとうございました。そして、この本の編集に魂を注ぎ込んでくださった父の後輩である永廣憲一さん、熊日出版の皆さまにも深く感謝申し上げます。

 

父が亡くなった翌日4月18日は汐留ベヒシュタイン・サロンで《樹原涼子》を弾きたいシリーズ トーク&コンサート ゲスト舘野泉 in 汐留を、葬儀翌日の20日、神戸で同じコンサートを開催しました。関係者の皆さまにご心配をおかけいたしましたが、おかげさまで無事に終了できましたこと、深く感謝申し上げます。

樹原涼子
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