樹原涼子の いだてん日記 2
いだてん日記、2回目です!
大河ドラマ「いだてん」について、日記を書くことにした経緯は「いだてん日記1」に書きました。金栗四三さんに興味のある方、いだてんファンの方にお読みいただけたら幸いです。
前半は、先週の第12話「太陽がいっぱい」に関することを書いてみました。
後半は、ドラマを遡って、印象的だったことをいくつか。
12話「太陽がいっぱい」について
ストックホルムオリンピック当日のことは、『走れ二十五万キロ 金栗四三伝』の中で「灼熱のレースに散る」(p.121)にまとめられています。大河ドラマで史実として、本書を参考にしていただけて、父もとても喜んでいます。では、早速本題です。
[“常識”はずれの猛スピード]
眠れないで朝を迎えた四三は、重い頭を抱え目覚めました。寝不足の四三は砂を噛むような味気なさで朝食を無理して食べ、そこへ挨拶に来た田島博士、大森監督、公使館の人々ににこやかに挨拶をする……ポーカーフェイスで焦りと不安を隠し、皆を安心させるところから、この章が始まっています。
そんな辛い朝の様子を、金栗四三氏本人から聞いて、父はペンを走らせました。父自身も陸上選手だったので、金栗さんが話しやすいように、様々な質問を挟みながら、長期間にわたる取材を続けていったようです。訥々とお話しされる様子を、父はよく覚えていて、金栗さんはオリンピックへの旅の初日からつけていた「盲目旅行ー国際オリンピック競技参加の記1」(p.94)を開きながら、ゆっくりと語られたとのこと。日時や記録という客観的事実以外に、金栗さんのその時々の気持ちを、隅々まで文字にしてくれてよかったなぁと思います。
スタート前の様子はこう書かれています。
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マラソンのスタートは午後1時半。充分の余裕をもって、四三は大森監督と二人で競技場へ向かった。青白い顔の大森監督は「きみのレースだけは是非とも見たいからね」と小さく笑う。安仁子夫人にとめられるのもきかず「今日だけは」と病気を押して出かけたのだった。
ところが、なぜかこの日に限って車がこない。二人は電車を利用することにし停留所へ行ったが競技場行きは満員、満員がつづいて乗れそうもない。仕方なく大森監督のペースに合わせて四三も歩いた。
競技場の支度所に着くともうマラソン選手の招集が始まっていた。すべり込みで間に合ったものの四三は焦る。大急ぎで支度をととのえ、選手たちの後を追った。(p.121より)
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競技中の四三の様子は長くなるので本書に譲りますが、準備万端でスタートに臨みたかったであろう金栗さんの気持ちを思うととても気の毒です。車でのお迎えがあれば、結果は違ったのではないか? と、1912年7月14日朝の車の手配について残念に思います。さらに言えば、大森監督がお元気であれば、と、歴史に「もしも」はないとわかっていますが……。
今のように、チームで戦うという万全の体制がない中、たった一人で、大変な逆境の中、走っただけでも凄いことだというのに、自分では走らない人にあれこれ言われるのは、昔も今も同じかもしれません。
日射病に倒れた四三は、「林中佐と友枝助教授に支えられて近くの駅から汽車に乗り、競技場へは行かずにまっすぐに宿舎へ帰った」とあります。どんなに辛かったことでしょう。
勘九郎さん演じる四三は、本当に、金栗四三が乗り移ったように見えます。
そのときの四三の様子を、父はこう書いています。(p.125)
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林、友枝の二人にたすけられて、やっと宿舎へたどりついた四三は心身の極度の疲労でぐったりとベッドへ倒れこんだ。まっ白く塩を吹き出した身体中がカッカッとほてる。後頭部は鈍器で殴られたような耳鳴り、膝がしらがズキズキと痛み、青白くはれ上がった足の裏は焼きゴテを当てられたようにヒリついた。
この肉体の苦痛に口惜しさ腹立たしさが追い打ちをかける。何かにすがって思いっきり泣きたかった。体を洗って着替えをすませると、やがて嘉納団長、大森監督、田島博士らが部屋へ入ってきた。驚いて立ち上がった四三は目のやり場に困った。田島のくちびるが憤りにピリピリふるえている。
「金栗ッ、なんたる意気地なしかッ。日本人の粘りと闘志はどうしたッ。大和魂をどこへ捨てたッ」
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金栗さんが背負った、その想像を絶する期待の大きさと、日射病になってしまった口惜しさと自分ではどうにもならない結果への情けなさで、金栗さんは思い出すのも辛いことを、包み隠さず父に話してくれました。そのときの思いを、父は、カタカナの「ッ」に込めたのでは、と思っています。こんなに努力したのに、なぜ、こんなにも叱責されなければならないのかと、読みながら憤慨した私ですが、驚いたのはその先にある文章です。
常に、自分を客観的に見る、ということを知っていた金栗さんは、すぐに、その夜、失敗の原因を考えました。
[“敗退後の朝”を迎ふ](p.125~)より、要約
1 暑さ。羽田の予選も代表選手決定後の試合も暑い日はなかった。必ず夏開催のオリンピックに向けて、耐熱訓練を。
2 総合練習と経験不足。しかし、21歳の自分には今後に希望が持てる。
3 外国人の出発時のスピードに圧倒されたこと。耐久力だけでなく、スピードの養成が必要。
4 足袋の工夫が足りず、膝を痛めた。外国の舗装道路は布では無理、研究が必要。
そのほか、睡眠不足、練習の孤独感、環境変化、いずれも予想しなかったことを敗北の原因とすぐに分析し、その日のうちに教訓としたのでした。本当に凄い方です!
翌朝、四三が机に向かって書いた日記には、4年後への決意が書かれています。ぜひ、全文を読んでみてくださいね。
そして、おそらく次回は、『走れ二十五万キロ 金栗四三伝』の中のこの項目に話が進むのではと思います。
ロマンティック大記録 「54年8ヶ月6日5時間32分20秒3」(p.310)
史実ですし、新聞でも報道されていることを含みますが、ドラマを楽しみにしている人にとってはネタバレになるのかしらと、ちょっと複雑な気がするので、詳細は今回は書きません。ドラマには、倒れた後の四三がどんな風に描かれているのか、楽しみです!
このおかげで、金栗さんはスウェーデンとの交流を長く続けることになるのです。
今回も大友良英さんの音楽、とてもよかったですね〜。特に、競技の途中で四三が調子よく走るシーンでの音楽は、音楽プロデューサーの夫と、「流石だね〜、いいね〜」と聴き惚れました。テーマ音楽がこうして様々なシーンで形を変えながら、ドラマと一緒に思い出になっていきます。
ついでに、いだてんコンサートに行ってきましたが、素晴らしかったです。NHKでもその模様が放映されます。3月31日(日)午後3時、お見逃しなく!
それでは、過去の放送を見ての私の感想などを少し書いておきます。
遡って、印象的だったこと
●四三の燕尾服、礼装について
私の予想が外れたのは、四三が燕尾服を注文に行くシーンがドラマになかったことです。これは、本当に予想外でした。
東京高師(東京高騰師範学校)は慶應義塾と並んでいわゆるハイ・クラスな、身だしなみの良い学生が多かった中、四三は熊本の片田舎に生まれた山だしでバンカラ、電車も乗らず人力車を追いこすような凄まじい勢いで走り回る名物男だったので、日本代表として外国へ行くのに、外国に留学経験のある教授の元を訪ねて、西洋の礼儀、服装の勉強を始めたそうです。
そして、いよいよ単身、三越百貨店洋服部へ出かけていく描写が本に詳しく書かれています。
(p.84から引用)
「燕尾服にフロック・コート、それに背広と外套ばそれぞれ1着ずつ作ってくれんかい」
若い店員はびっくりして皿のように目を見張った。帽子をワシ掴みにした、大して風采も上がらず金もなさそうな学生が、大臣様並みの注文をする。それも妙な早口でよく分からないのだ。
~中略(すったもんだ……)~
若い店員は売り場の主任らしい中年の男に応援をもとめた。
“ハハァー、相手はオレを気違いと思っとるばい”
四三は主任にゆっくりと事の次第を説明した。
「私は金栗四三というもんで高師の学生です。こんどオリンピックへ行くことになったので、礼装用のきもんば注文しよったとですたい」
主任もようやく納得した。それからは下へも置かぬ丁寧なもてなしで寸法を測ってくれた。
***
ドラマの中で、礼装での写真撮影のシーンが回想されるたび、金栗さんは、何もかも一人で考え、実行した人なんだなぁと、改めて思います。ググれば何でも調べられる今の私たちには想像もできないくらい、何もかも、本当に一から、一人で考えぬいて行動した金栗さんはすごいなぁと思います。さらに、そのことを実感するのが……。
●食事のマナーはどこで学んだ?
食事のマナーについては、ドラマでは三島家で学ぶシーンがありましたが、実際は、週に1回ずつ、小石川伝通院前の「西川」という西洋料理店に通って、洋食の食べ方について学び、毎回5、6品を注文したそうです。脂汗を流しながら洋食と格闘する四三の姿が、『走れ二十五万キロ 』の中には度々出てきます。
三島家で洋食のマナーを習った、というドラマの筋書きは史実とは違いますが、弥彦との立場、環境の違いも浮き彫りとなり、印象的なシーンになっていましたね。三島家の人々を描く上でも、また、立派なお屋敷を見上げる四三の心の内を表現する上でも、なるほど!と思った場面でした。(p.85)
●英語はどこで学んだ?
これは、金栗さん自ら加納治五郎に相談に行き、大森監督の夫人が住む大久保の家に、週に2日小石川から走って通ったと記されています。本当にどこに行くにも走って行く上に、トレーニングはそれとは別立てで走っていたのだから、金栗さんって本当に……。(P.86~)
●ドラマに出てこないけれど、面白いエピソード
また、ドラマにない面白いエピソードも沢山あります。
金栗さんは、オリンピックまでの栄養補給のために、近くの江知勝というすき焼き屋に友人たちと通い(週に2、3回!)、豚肉を大量に持ち込んで、始めの1回だけ正式に注文してあとは豚肉を入れてたらふく食べたそうです。かねてから馴染みで、店もそれを黙認してくれたおおらかさがいいなぁ。
燕尾服の注文シーンやすき焼きのシーンも、もし、金栗さんだけで大河ドラマが1年の予定なら、きっと描かれていたのかなぁ。一人で想像しては楽しんでいます。(p.86)
●感動的だった弥彦と母のシーンは……
ここ、泣きましたよね。
でも、改めて『走れ二十五万キロ』を読むと、このシーン、弥彦の母ではなく……
駅前広場では身動きもできないほどごったがえした。そこへ自動車に乗った三島弥彦が、兄の日銀総裁三島弥太郎子爵ら家族と一緒に現れた。そのころは東京でも珍しかった自動車で乗りつけ、カンカン帽にダブルカラーというイキなスタイル、しかも鼻ヒゲをたくわえた三島を見て、群衆はワッとわいた。
~中略~
四三たちは神戸行きの一等寝台に乗り込む。老衰した三島選手の祖母が侍女に助けられて窓ぎわに歩みより「からだを大切におしよ」と涙を流した。(p.93より引用)
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というわけで、弥彦の母とのドラマはクドカンさんの素敵な演出でした!
いつかは、スヤさんについても書かなくてはと思っています。綾瀬はるかさんの印象が素晴らしいので(ロケでお会いしたときも、本当にステキな方でした! いだてんコンサートでも、「自転車節、お上手でした)、いつ書いたらいいものやら悩んでしまうのですが、それは、いずれまた。
それでは、金栗四三さんの伝記をご覧になりたい方は、ぜひ、アマゾンか熊日出版でどうぞ。
流通の関係で、全国の書店では取り扱っていません。(もし、ガンガン注文が入れば、可能になることがあるのでしょうか……わかりません)
NHK大河ドラマ「いだてん」参考資料
『走れ二十五万キロ「マラソンの父」 金栗四三伝』長谷川孝道著 熊日出版
なんと、赤い文字で書かれた題字は金栗四三さんご自身によるもので、父がいただいた書から取りました。
【著者:長谷川孝道 プロフィール】
1931年(昭和6年)、熊本市生まれ。
済々黌高校、早稲田大学法学部卒。熊本日日新聞社社会部、東京支社長、広告局長、情報開発局長等を経てエフエム中九州社長、会長。その間、熊本陸上競技協会会長、心豊かな熊本を創る会会長、熊本県体育功労者、日本陸上競技連盟秩父宮賞受賞。著書に『走れ二十五万キロ 金栗四三伝』『熊本の体力・郷土スポーツの歩み』(編著)など。