樹原涼子のいだてん日記 4
いだてん日記 4
「いだてん」の前半の主人公金栗四三から直接取材をして131回の熊本日日新聞に連載(1960年)をした父、長谷川孝道。その仕事がなければ『走れ二十五万キロ 金栗四三伝』(1961年講談社より出版)は生まれませんでした。82歳になって復刻版(2013年熊日出版より自費出版)を出した直後に東京オリンピックが決まり、その後「いだてん」放映が決まりました。この本がなければ「いだてん」は生まれなかったと、プロデューサーの訓覇圭さんが新聞の取材に答えてくださったのも嬉しいことでした。
熊本市の上通り 長崎書店の道に面したディスプレイ
4月17日に肺炎で87歳の生涯を閉じた父でした※が、人生最後の大仕事がNHKの大河ドラマの下敷きとなったのは、大きな喜びだったと思います。何より、金栗さんの人生、功績、人柄を伝えたかった父。単なるスポーツ選手ならば、父はここまで金栗さんに惚れなかったと思います。ドラマの中でもこれから描かれていくと思いますが、自分の経験、失敗から学んだ智恵、手法を、どんどん後輩に伝え、そう年も変わらない人たちから「金栗さん、金栗さん」と慕われ、尊敬され、多くの陸上選手、スポーツ選手が生まれる礎を作ったのですから。
今日の第16回「ベルリンの壁」は、四三がベルリンオリンピックへ向けて猛練習をしている姿を見るにつけ、それが中止となったことに同情せずにはいらませんでした。また、ドサ回りの孝蔵が無銭飲食の末に牢屋で師匠の十八番だった「文七元結」を語ったのにも驚きました。師匠の死と絡めて、なんと胸にせまるシーンでしょうか。クドカンさんの演出も見事、森山未來さんも見事。
登場人物の描写が幾重にも重なって意味を持ち、時代も前後して描かれていくのは、周到な準備の上のドラマ作りが伺えます。金栗さんだけを1年間描いてもいいくらいの内容量を、ぎゅーっと凝縮しているので、さすがにテンポが早く感じるかもしれません。けれど、「時代」を描きたかったのだなぁ、と、これはこれで一つの素晴らしい方法だなぁと、ぐいぐい連れていかれる勢いが気持ちいい。
それでは、このあたりから父の伝記にそって、史実との違いを知って楽しんでいただけたら。
四三の耐熱練習の激しさと、計画性
第15回の放映では、『走れ二十五万キロ 金栗四三伝』p.136の「真夏の浜辺で耐熱練習」前半の様子が詳しく描かれていました。場所は、千葉県館山市の北条海岸。富士山を見ながら、帽子もかぶらず走り(暑い中の訓練が目的なので!)、北条から那古船形までの往復8キロ感想が目標でしたが、どうしてもできない。40日めでやっと、猛暑の中8キロを完走、「天にも昇るうれしさだった」とあります。
第16回では、浜辺の耐熱練習の後半が描かれていました。
九月に入ると炎天下の練習が面白くなった。目標の第一段階に達した喜びが四三の心に余裕を持たせた。練習に貪欲な四三は、海辺を使っての補助運動もやってみた。水の中を走る訓練である。膝までの水を蹴散らして走るわけだが、水には抵抗があるから足はなかなか進まない。百メートルも走ると足を取られてひっくり返る。これを我慢して膝をあげるように走りつづけると、脚、腰、腹筋の格好の鍛錬になった。初め二百メートルもつづかなかったのが、やがて二千メートルくらいは休みなしに走り通せるようになった。
“何事でもその気でやれば必ずできるものだ”
(p137)
ドラマの中では、思いつきや根性で走っているかのようにも見えますが、2ヶ月に及ぶ耐熱練習は計画的なものでした。金栗さんは、できることからスタートして、様子を見ながらチャレンジしていく。決して無理をせず、できることをつづけ、身体に相談しながらよく考え、時間をかけてじっくりと取り組んだものです。近所の人たちは、はじめ「気でも狂ったのではないか」という目で見ていたのが、最後には浜中の人気者になり、近くの人力車夫が「カナクリ屋」という看板を掲げたと書かれています。
この、計画性と実行力、多くの人に愛される様子が、本のあちこちから感じられ、なんて頭がよくて思いやりのある方だったのだろうと思います。
そうそう、ドラマにはまだ出てきていませんが、風呂場で裸のまま猛烈な足踏み練習をしたり(外国の舗装道路を走る練習)、スピード、瞬発力を高めるために、その頃立ち始めた電信柱の間が4、50メートルで丁度良いというので、10本分を全力疾走、次の10本を軽く流して呼吸を整え、10回、20回とそれを繰り返す「電信柱練習法」を編み出していました。
「これは、戦後のヘルシンキ五輪で有名になった“人間機関車・ザトペック”のインターバルトレーニングにそっくりである。さらにはピッチを上げる練習、歩幅を伸ばす工夫、徒歩部の仲間の二倍から三倍の激しさである。」(p.133)とあります。
スポーツ医学、という概念もない頃に、金栗さんがたった1人で考え抜いて実行していった様子が、克明に書かれています。音楽の道も同じではないか、習ったことをするのは簡単だけれど、自分で考えて実行する、というのはどんなに大変なことかと思います。
確立された「〇〇法」をするのは、誰にでもできる簡単なことです。そして、それがいいとか悪いとか言うのも簡単なこと。けれど、それを、一から編み出して結果を出していく金栗さんは、本当に凄いと思うのです。
妻、スヤさんとのこと。真実は……!
これは、ドラマを見ている方にとって期待の大きいところでもあり、いつ書こうかと迷っていましたが、今が丁度よいかと思います。
ドラマでは、小さい頃に「スヤが四三におんぶされる」シーンがありましたね。そして、川で水浴びをしているところで語り合い「自転車節」を一緒に歌ったり、東京へ行く四三の機関車を自転車で追いかけて「四三さ~ん!」と叫ぶシーン。特に、綾瀬はるかさんの立ち漕ぎが上手過ぎて、視聴者のみなさんも驚いていた名シーンが生まれました。
ですが、ごめんなさい、本当は。
見合い、結婚、単身上京 (p.204)
四三夫妻の結婚については、p.204から詳しく書いてありますので、ぜひお読みください。2人の結婚までの経緯、池部家へ養子にいくことになった経緯、さらに、四三とスヤさんの手紙のやり取り、また、養母池部幾江さんとの手紙もいくつか原文のまま出ています。
金栗さんのお嬢様3人とは父も交流がつづいておりましたので、私も何度かお目にかかっており、先週、金栗さんのお嬢さんとお孫さんが、父の霊前にお線香を上げに来てくださいました。「事実とドラマは別のものだから」、と割り切っていらっしゃるご様子でしたが、時代劇と異なるのは関係者が健在でいらっしゃるということ。フィクションとノンフィクションが入り混じっているので、視聴者にはどこまでが本当のことかわからないですね。私も、父の本の編集を手伝っていなければ、わからなかったことです。
以下、巻末の年表(p.336)から抜粋します。
1914年、大正3年4月8日、郷里へ帰り、翌9日、玉名郡石貫村の石の一人娘、春野スヤと見合い。
4月10日、玉名郡小田村の池辺毛で、春野スヤと結婚式を挙げる。
四三23歳、スヤ22歳。(大正11年、正式に池部幾江の夫婦養子となり、池辺四三に)
4月15日、新妻スヤを小田に残し、オリンピックを目指して、単身上京。
というわけで、2人はお見合いで初対面、翌日結婚、四日後には離れ離れに暮らし始める……と、これもまたドラマのような事実。大正時代には、紹介してくださる方を信じて、一生の伴侶を決めるのは普通のことだったのですね。
金栗さんはスヤさんや養母へ、三、四日に一度は手紙を書き、コミュニケーションを密にとっていらしたことを知り、自分勝手に夢を追いかけるのではなく、支えてくれるお二人への感謝をいつも言葉にしていらしたのだなと、ちょっと感激です。
四三がスヤを追い返したって、本当?
そんな優しい金栗さんが、せっかく上京して来たスヤさんを追い返すなんて本当?
ドラマのタイミングではなかったけれど、追い返したことがあったのは事実です。それは、もう一つ先のアントワープオリンピックの前のことでした。
アントワープへの出発直前、夫の遠征準備の手伝いにとはるばる上京してきた妻を「私は今郷里も妻も忘れて祖国のために走ろうと思っている。気を散らさないでくれ」とすげなく追い返した四三……、その夫の心情を知って寂しく帰っていったスヤ……。
マラソンのためには、全てを犠牲にし、悲しさにも寂しさにもたえて来た若い日の2人の生活であった。(p.209)
そろそろ力尽きましたので、今日はここまでといたします。
ドラマの明るく朗らかな金栗さんの魅力に加えて、もっと沈着冷静で、知的な金栗さんのイメージを私は持っています。穏やかで、けして自慢話をされなかった金栗さん。そんな金栗さんの魅力を、また、来週もお伝えできればと思います。
父の通夜の翌朝、雨に濡れた庭に咲くイキシア。
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『走れ二十五万キロ マラソンの父 金栗四三伝』復刻版 長谷川孝道著