今、歌いたいこと、伝えたいこと
毎日毎日、明日がやってくる。
そのことに慣れ過ぎて、怖いくらいです。
でも、その“毎日毎日”は似ているけれど、少しずつ違う。
昨日のつづきの今日は昨日とそっくりかもしれないけれど、今日の続きの明日は、まるで続いてなんかいないような明日になることもある。
いつもいつも音楽の仕事に打ち込み、一昨年の続きの昨年も、そのつづきの今年も、音楽に捧げて来たと思う。
自分は年をとることも忘れて、日々同じように過ごしてきたから、十代の頃から考えていることは何も変わっていないような気がしている。
ずっとずっとピアノを弾いて、ピアノを教え(途中はダンスも教え)、曲を作っては演奏し、歌ってきたから。
けれど、ふと気づくと、いつの間にか私は母になり、片手で抱いていた子ども達はずっしりと重くなり、一人で歩くようになり、一人で出かけるようになり、自分の夢を追いかけて大人になっていった。
その過程も、昨日の続きの続き続き……のように起こったことだし、
私を抱いていた若かった両親が白髪になり、少しずつ腰が曲がり、いろんなことが不自由になり、絶対的なものであった親が自分に頼るようになっていく過程も、毎日毎日が沢山繰り返され、過ぎていった刻印であるのだと思う。
人生は、あっという間の出来事と言わざるをえない。
子どもの変化は受け入れやすいもので、成長して離れていくのも喜びであることに対して、親が弱っていく淋しさや哀しみにはなかなか慣れることができないということも知った。
それを受け入れるのにかかる時間は人によって違うと思うけれど、私にとっては、両親が小さくなっていくように感じることは、目で見えてはいても信じていない、信じたくない出来事で、そのことを受け入れられるまでには少し時間を要したと思う。
「まだまだ元気でいてくれる」と思うのは、「まだまだ元気でいて欲しい」からだし、「今日元気なら明日も元気な気がする」のは、人間が何とも楽観的な生き物だからかもしれない。
受け入れ難い現実と心が折り合っていくように、自分を励ますためにも音楽は役立ったと思う。
その気持ちを詞にする、曲にする、演奏することで、少しずつ受け入れることができるようになってくる。
心から、一旦外に出すこと、形にすることはとても大事だと思う。
淋しさや哀しみが無くなるわけではないけれど。
かつて大切な友を亡くしたときに、『The Four Seasons』の4枚のCDを作ることで、私は彼女の死をやっと受け入れることができたし、それを歌い演奏することで喜んでくれる人もいて、その後楽譜にもなった。
今年一年を振り返って歌いたいのは、そんな、過ぎた時間や想い出への愛しさや感謝。
「今」を、もっともっと感じて味わって、大切に大切に生きたいという思い。
今日の続きではないかもしれない明日を、選ぶ勇気や、受け入れる強さや、想像力。
12月26日が近づいてくる。
クリスマスコンサートのプログラムを考えるために、私は、自分の心を覗き込むようにして考えつづけた。
今の私が歌いたいこと、伝えたいことは何かと。
歌詞があるということは、ピアノ曲に比べて全く異なる世界を伝える手段でもあって楽しみも大きいけれど、自分をさらけ出すようで怖くなることもあった。
けれど、作品というものは、真にその人から出たものである、と思うし、また、作品に嘘はつけないとも思う。
今回は、今日ここに書いたことをテーマに、プログラムを紡いでみたので、そんな、人生折々の思いを聴いていただけたら嬉しい。
クラシックのコンサートではないので、プログラムを全てお知らせすることは「何が聴けるんだろう?というお客さまの楽しみを奪う」とプロデューサーの意見で、最近では、終わってからその日のセットリストをお渡しすることにしている。
昼の部もあるので(こちらについては、また別に書きます)、夜の部は体力が持つかほんの少し心配ではあるけれど、とにかく、この思いを歌おうと思う。
これは、樹原涼子の歌の代表作の1つだと思っている作品で、ゲーム「俺の屍を越えてゆけ」の主題歌にもなった。
昨年、その続編「俺の屍を越えてゆけ2」(樹原孝之介作曲)発売前の「お披露目の儀」で、セルリアンタワー能楽堂で、ごきげんバンドと演奏した動画がアップされているので、ご紹介します。
「花」作詞/作曲 樹原涼子
この曲を作ったときにはまだわからなかった気持ちが、歌いつづけるうちにわかるようになってきたのも、作者でありながら不思議に感じたりもする。
いつもと違って、シンガーソングライター樹原涼子になる。
これは、昨年のコンサートの一コマ。ちょっとオスカルしてるかも……笑。
ちょっと真面目にエッセイ風に書いたので、いつもと文体が違うけれど……。よかったら、生でお聴きいただけますように。