そもそも勉強するって何だろう、と考えてみた。

そもそも勉強するって何だろう、と考えてみた。

そもそも勉強するって何だろう、と考えてみた。
子供の頃のそれは、学校に行ってさせられるもの、与えられるものであって、自分から求めていく類のものではなかったと思うし、「勉強」という言葉の響きからして自分の外にあるものだったような気がする。「勉強」という塊の一角を宿題という形で仕方なく削り取っていくようなイメージ。けれど、大人になってからは全く違う状況にある。
自分が知らないことが世の中には沢山あることに気づき、知りたいこと、もっと知りたいことがどんどん増えていく。歳を重ねるにつれて知りたいことが増えていく、勉強したくなる。それはいったいなぜだろう。
 
すでに「勉強」という言葉は、私の中で好奇心とか知識欲とか理解したいという願いとかに置き換えられ、それは努力しようと構えなくとも「自然と研究してしまう」という行為に他ならない。勉強するために使える時間は宝物のように貴重に思える。しなければならないことではなくて、自分の心が欲する、受動的ではない欲求としての「勉強したくなる気持ち」は、人生をより楽しく生きたい、ということでもある。大人になって「勉強が楽しい」とは「生きるのが楽しい」ということだと思う。
 
今や私にとって勉強は自分の外にあるものではなく、自分の内側にある楽しみの泉のようなところ。音大を出て実家に戻り就職を勧められときに、「もっと勉強したいことがあるので、もう少し東京で勉強させてください」と言ったとき、「音大を出てまでまだ勉強することがあるの?」と周りの人に言われたけれど、両親にはその意味がわかってもらえてよかった。音楽は、学校を卒業したから勉強が終わるなどという生易しいものではなく、そこからやっと勉強が始まるのだから。
 
もちろん、ジャズ理論を学び始めてすぐの頃は何度もつまづいて苦しいこともあったけれど、それが嫌というわけではなく、だからこそ挑みたいという思いがあった。そして、6年学んだあとには、これをクラシックの世界でどう生かしていくかという研究を始め、その道すがら『ピアノランド』を書いた。やっと今、『耳を開く 聴きとり術 コード編』と『ピアノランド スケール・モード・アルペジオ』を書くことができて、その頃の目標に近づいてきたと思う。この2冊をまとめたことは、作曲をしていく上での私自身の大いなる財産ともなった。
 
音楽の道はどこまでもつづく!
樹原涼子
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