わたしの手4 白馬の王子様の代りに
樹原涼子
林檎をむくときの手の動きを思い出してほしい。
私は、利き手である右手に包丁かペティナイフを持ち、左手で林檎を持つ。
四つに割ってひとつずつむいていくこともあるのだけれど、テーブルの上に小さなカッティングボード(まな板、というよりなぜかぐっとお洒落)を置いて、家族と話しながら上の方からくるくるとむいていくのが好きだ。
夫の実家で林檎をむいているとき、「皮を厚めにむくのね。あ、いいのよ、娘も厚くむくし。若い人はみんなそう」と義母。
江戸っ子の母は気づいたことをサラリと口に出すので結婚当初はどぎまぎしたけれど、全く嫌味なところがない。
指図も干渉もされたことがなく、いつも忙しく走り回っている私を遠くから見ていて、SOSを出したときだけ手を貸してくれた。
一度も険悪になったことがないのは、ひとえに義母の人格が素晴らしく、尊敬していたからだと思う。
「そうなんです。指に怪我しないように、皮は厚めにむいています」
「そうね。あなたは手を大事にしなくちゃね」
「はい!」
もしも手に怪我をしてしまったら仕事に差し支えるので、あるとき、手タレさんのように保険に入っておいたらどうだろうと、夫が調べてくれた。
もちろん、楽器を弾く人は手に保険をかけることができることがわかってその気になりかけたけれど、それには厳しい条件があった。
いや、難しくはないのだけれど、私の場合は諦めるしかなかった。
「家事をする人」は保険に入れない、のだった。
「わぁ、じゃあ、明日から家事やめるね!」と、喜んで保険に入ってもよかったのだけど、小さな男の子をふたり育てながら、料理も洗濯も裁縫も(その頃は)していたから、それら全てを放棄してピアノと原稿だけに生きていく決断はできなかった。
第一に、料理は好きだ。
夫や自分の体調を見ながらそのときどきに食べたいものを作るのが好きだし、子供に食べさせるものは自分で作りたい。
包丁を持てなくなるのはとても困る。
料理は仕事の息抜きで、私の楽しみでもあった。
過去形なのは、最近、夫にその楽しみを奪われつつあるから……。
保険に入れないことがわかってからは、以前にも増して、気をつけて包丁を持つようになった。
短期間でも指の怪我は、誰かに迷惑をかけることになる。
ピーラーという便利なものもあるけれど、やはり、ピーラーでうまくむける食材は限られている。
林檎は、包丁かペティナイフでむく。
林檎を持つ左手はほんの少しずつ林檎本体を回しながら、右手の1の指(親指)はむかれている皮を押さえている。
ちょうど刃がむき進んでいく辺りを、上からそっと1の指で押さえる加減を覚えるころには、料理の腕前も上がっているのではないか。
林檎を回しながら、右手に持った包丁の刃がけして上向きにならないよう、その角度を1の指が調節してくれる。
勢いがよ過ぎても、用心深くゆっくりむき過ぎても、上手くむけない。
何事も、リズムが大切なのだ。
皮が厚くなってしまうとむいている途中でぷちんと切れてしまうし、幅が広くなったり細くなったりすればこれもまた途端に切れやすくなる。
皮はどうせ捨てるので、途中で切れてもいい、どんな様子でもいいと思う方もあるかもしれないけれど、そうはいかない。
やはり、同じ幅で、同じ厚さでくるくるとリズミカルにむいていきたいし、綺麗に1本になったら嬉しいではないか。
最後に“ま〜るくむかれた白い林檎”を見るのは楽しい。
林檎の皮は、ごく自然に重力に逆らわずに下に落ちてゆくのがいい。
編み物のように、もっと長いことむいていたいと思うくらいだ。
包丁を使うという行為は、食材と向かい合う、真剣なものだから、茶道や華道のように「道」がついてもいいのではないか。
切り方は料理の味を決める。
不揃いなら火の通り具合もバラバラになるし、一口大とそうでないものが混じっていたら食べにくい。
生で食べる林檎の大きさはどうでもよさそうでいて、やはり、そうはいかない。
どれも同じ大きさ、形になって皿の上に美しく並ぶとき、林檎もちょっと嬉しそうだ。
「さぁ、召し上がれ」感があった方が、食べるほうも嬉しいのではないか。
ああ、こんな風に、音符だって文字だって、意図したように美しく並べたいと思うので「完璧主義ですね」と出版社の人に言われるののだけど、仕事のほうはいくらでも突き詰めていけるので楽しい。
校正作業は本当に大変だけれど、直しは最後の最後まできちんと入れるし、確認する。
林檎なら、まぁ、上手くむけなくても美味しく食べてしまえばそれでいいのだけれど。
息子達が保育園に通っている頃のこと、デザートに林檎をむいていたら「ママ上手だね〜」と誉められた。
そう、カッティングボードの上に渦を巻くように美しく皮が落ちていく様子に子供達が見とれている。
ふふふ。
人参の型抜きやらホットケーキ作り等はいつも一緒にしていたし、子供用の包丁も使わせて、「食べる」までの一連の作業をなるべく独り占めしないように気をつけていた。
家事をしている手元をみせるのも教育の一貫だ。
君たちが大きくなったとき、自分の健康を自分で管理できるように、好きなもののひとつも作れるように、生きていく本題に時間をかけるためにも、性別にかかわりなく家事能力を磨いておくのは大切なこと。
しめしめ、彼らも林檎の皮が上手にむけるようになるかな?
「ありがとう。最後まで切れないように上手に林檎の皮をむいたら、白馬に乗った王子さまが迎えに来てくれるんだって」とにっこりした瞬間、ふたりの小さい手が伸びた。
プチン。
林檎の皮は惜しいところで切れてしまった。
「あと少しだったのに〜」
パパの地位を守ろうとしてくれたふたりのナイト(騎士)の頑張りが可愛いやら可笑しいやら!
それで結局、私には白馬に乗った王子様は迎えに来なかったし、その代わり白髪のおじさまがいつも車で送り迎えしてくれるのだけど。
林檎をむいていると、ふいにあのシーンを思い出すことがあって、ちょっぴり幸せを感じる。
子供はすぐに大きくなってしまうけれど、想い出は色褪せない。
いや、話しがすぐに逸れてしまうが(逸れた話しのほうをついタイトルにしてしまったけれど)、大切なのは、右手ではなく、左手の動きだ、という話しをしようと思う。
そう、料理上手な人が包丁やナイフを持っているとき、実はその利き手をほとんど動かしていないことにお気づきだろうか。
林檎に限らないのだけれど、皮をむくという作業は、左手が肝心だ。
右手に持った刃の角度を一定にして構えているところに、左手で林檎を回しながらおくっていく。
その林檎の回し方ひとつで、表面がでこぼこになったり、綺麗な球体になったり、仕上がりが違ってくる。
右手でむいているようで、実は左手が林檎をむいている。
そのことに気づいたとき、私は何かこう、新鮮な驚きを感じた。
「右手はじっとしていて、動いているのは、林檎をむいているのは左手なんだ!」という発見は、はたして林檎をむき始めてから何個め辺りで気づいたのだろう。
なぜ、それまで気づかなかったのか。(いや、気づくまでは気づいていないので仕方ないのだが)
手縫いをするときだって、針を持つ手より、これから縫うべき布をいかに縫いやすく持ち、次に針を刺す場所を用意するかの方が大切だ。
運針は左手の規則的な動きが肝なのだと、母や義母や大叔母の手元を見て思ったものだ。
素人は、右手で縫おうとしてしまい、リズムにのれないのだ。
釘を打つときだって、釘を正しい角度で押さえている左手がなければ目的は達成されない。
包丁に話を戻すと、キューリを切るときだって、まな板の上に転がしておいて左手を使わずに右手でトントン切るのは難しい。
やはり、しっかりと左手で押さえているからこそ、等間隔できれいにスライスしていけるのだ。
よく観察すると、日常生活の中にいろんな発見がある。
単に左手が重要な働きをしているという事実だけではなく、このことは私に深く何かを教えてくれた気がした。
自分で何かをしたつもりになっているとき、もしかして、それはしっかりとお膳立てされたことだからスムーズにいっただけなのかもしれない。
誰かの心遣いのおかげで、あるべきところにあるべきものが配置されていて、上手く運んだだけかもしれない。
お釈迦様の掌の上にいるだけで、「自分でできた」と思っていることが沢山あるのかもしれない。
もちろん、右手も左手も大事なのだけれど、動いたように見えるものより、動いてないように見えるもののほうが大切な役割を担っていることも多いのだ。
仕事の中にも、利き手にあたる仕事、押さえる手にあたる仕事があって、一見、外に見える仕事のほうがもちろん目立つのだけど、そのクオリティを支えているのは、表に出ないほうの仕事だと言える。
下ごしらえ、仕込みに時間をかけるのは、いい仕事をするためには鉄則だろう。
私は、作曲家という仕事柄なのか、“仕事が上手く運ぶためにする仕事”が嫌いではない。
教材を書いたり、勉強会のカリキュラムを立てたりするのは、まさにそういう仕事で、いかに上手くさせるかは、いかに準備する習慣をつけさせるかに尽きる。
右手は左手に感謝して、左手は右手に感謝して、一緒にチームとして林檎をむいているということに気づくだけで、なんだか世の中は上手く回っていくのだなぁと思う。
自分の中での両方の役割分担、自分と他者との間の役割分担、それぞれのバランスとクオリティを考えていくと、これから、もっといい仕事が出来そうな気がしてる。
林檎をむくのが好きでよかった。